山口県光市室積3丁目  早長八幡宮秋まつり 山車御神幸の紹介  2009-10-11(日)  





山口県光市室積3丁目早長八幡宮   
早長八幡宮秋まつり 山車御神幸の紹介   
 2009-10-11(日)

 早長八幡宮秋まつり 山車御神幸


   祭りは例年1日だが、今年は式年祭のため2日間にわたって「海上御神幸」と「山車御神幸」開かれた。

「海上御神幸」
 10日の海上御神幸ではご神体を載せた2隻をはじめ、氏子らの乗り込んだ漁船24隻が御手洗湾と室積海岸を周回した。
 御旅所近くの室積海岸では船が一列に並んだ後、2隻の船上からもちまきが行われ、 25年ぶりの海上御神幸を一目見ようと詰め掛けた見学者らを喜ばせた。

「山車御神幸」
 2日目の11日には市有形民俗文化財に指定されている山車10台と民俗芸能用屋台「踊山」の恒例の引き回しが繰り広げられた。
 式年祭のため今年は御旅所が「松原御旅所」と「宮の脇御旅所」の2カ所設けられた。約4.6キロを「鳥居」や「石燈呂」など神社の形態を整え た山車や踊山が勇壮に練り歩いた。旧道を山車が練り歩くのは久しぶりで昔の山車御神幸がしのばれた。途中自治会の接待場所も設けられ、引き手を ねぎらった。


   早長八幡宮について


  御祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
比売神(ひめがみ)/宗像三女神(むなかたさんじょしん)
 ・田心姫命(たごりひめのみこと)
 ・湍津姫命(たぎつひめのみこと)
 ・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)


 文安元年(1444年)、豊前(大分県)の宇佐八幡宮を勧請したと 伝えられている。
 その地を早長の浦と呼んでいたので、この名をつけた。

 初め祀られたのは、宮ノ崎で、その後、人家がふえて、宮ノ脇に遷座し 、寛文元年(1661年)に現在地に遷されたものです。
 荘園時代に京都石清水八幡宮の社領内にあった関係から、お祭りは京都の葵 祭に似て豪華である。
 祭礼は10月の第2日曜日に行われています、祭りに引く山車は文化 財に指定されている。、ふるさと郷土館には先代の曳き舶が展示されている。
光市室積山車保存会 ホームページ

  山車御神幸プログラム





ポスター

  山車10両の名称


由来 寺社由来・防長風土注進案の記述によると、神霊は毎年12月3日、
年越しの神事で豊後の姫島へ渡られ、3月3日にはお迎えの行事があり、
この時神霊を載せた神船の前後に満艦飾の御供船が何十隻も供した。
先頭の露払い船には「太平楽」の文字を縫いとった大幟二張を押し立て、
氏子若衆たちは船上で「木遣り唄」を奉納した。
江戸前期・寛文元年(1661)宮町の現在地に遷座、この時、祭礼に
用いた神船を模り「台若」「鏡山」「曳舟」の3輌の山車が造られた。
江戸中期・元禄年間(1688〜1703)になり、神社の小物を模った山車
「鳥居」「石燈呂」「高麗犬」「随神」が造られ、今日の山車行列の形態が整った。
享保18年(1733)室積浦の普賢寺・番所・蔵・対面の松を含め226戸
の民家を焼失する大火災があり、全ての山車を焼失したが、氏子の熱意で、
宝暦7年(1757)再び造られた。
現在の山車は、この時復造された二代目を修復を重ね今なお使用しているものと、
再び復造し、三代目を使用しているものがある。
山車行列のしんがりを務める「踊山」は文化年間(1804〜1817)に造られた。
この屋台上で舞踊などの民俗芸能が奉納されたことから「踊山」と呼ばれている。
光市室積山車保存会 ホームページ



  山車御神幸スナップ写真


こども神輿参拝


こども神輿お祓い



子供木遣り太鼓



若衆参拝






「6人の山宰領」
宰領とは、多くの人を取り締まる人のこと。この祭りでは
「踊山」に乗り込み御幣を振る人のことを山宰領(やまさいりょう)と呼ぶ。
毎年6人の若衆が踊山の山宰領に選ばれる。
山宰領は着物姿で踊山に乗り込み交替で御幣を振って踊山を曳く若衆を指揮する。



若衆参拝


頭祓い


台若(だいは)出発

寸法 高さ 前方 0.94m
後方 1.34m(松を飾りつけた時の高さは4.6m)
横幅 1.55m
奥行 3.3m(幟を飾りつけた時の全長は12m)
重量 700kg
品質 木造(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作年代 寛文元年(1661)
所有 南町(みなみちょう)・宮ノ脇(みやのわき)・台若保存会


氏子総代(うじこそうだい)



出発


こども神輿

神輿 当番自治会が担当
 
            

曳舟(ひきふね)

寸法 長さ 5.7m 巾 1.4m
高さ 3.1m
重量 650kg
品質 木造(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳 製作年代 寛文元年(1661)

所有 北町(きたまち)


 

  「6人の山宰領」と「赤ちょうちん」          


御鏡山(かがみやま) 山根町(やまねちょう)


  旧道御神幸


松原自治会の接待(お茶・お神酒)

           

別府地区より祝いの太鼓参加


神職(しんしょく)松原御旅所に到着


曳舟(ひきふね)到着


「6人の山宰領」も歩いて松原御旅所に到着。
ここから踊山にのり宮ノ脇御旅所 早長八幡宮へ向かう。


 踊山(おどりやま)

寸法 長さ 7.28m 巾 2.55m
高さ 3.97m
重量 2,000kg
品質 木造(けやき、檜、松)
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作年代 文化年間(1804〜1817)
所有 光市室積山車保存会

「踊山(おどりやま)の歴史」

「江之浦山」(江之浦・西ノ浜、元は北町の「北山」)と「南山」(南町)
の2輌があり追い山で競い合ったが、老朽化。現在は南山のみ残っている。
藩政時代毛利氏は早長八幡宮に対して年々社領1石を裁許、秋季例祭には、
県下でも唯一の華やかな出し物だった「踊山」に対して、藩予備銀の中から
80文銭300匁を、同じく6月の恵美須祭りにも60匁を供進されるのを例とした。
※当時、銀(80文銭)300匁は金5両に相当。
山車は江戸中期に誕生したものとみられるが、特に宝暦年間(1751〜1763)
毛利重就の時代、宮ノ脇(撫育局が設けられて宮ノ崎を改称)に御旅所が設
けられ、御神幸のあと先に曳きまわされて屋台上で舞興行が行われるようになった。
当時南町北町界隈は所謂海商銀座・遊女街として隆盛期にあったので、祭り
もひときわ盛大に、かつ華やかに行われたと伝えられている。
光市室積山車保存会 ホームページ






餅まきが踊山から行われた。


台若(だいは







  九頭
早長八幡宮秋祭りは代々九人の頭屋、「九頭(くとう)」によって執行されてきた。
九頭の役に選ばれることは大変な名誉で、親類縁者にご馳走をし、近隣の親しい人
に祝いのものを配布したということある。
かつては「播磨の八頭、周防の九頭」といわれるほど著名であった。
頭屋(とうや)とは神社の祭祀や講において、神事・行事を主宰したり世話したり
する人のことで、年ごとに輪番制で交替する。
光市室積山車保存会 ホームページ





松原御旅所での神事の場所


松原御旅所の位置(四角い石がある)





松原御旅所での神事
松原御旅所は、1444年、宇佐神宮から勧請の際神霊を
乗せた船が着いたとされる場所である。



松原御旅所での神事







踊山 松原御旅所を出発


狭い道から国道へ向かう


国道188号線の踊山。
交通規制が行われ下り車線を踊山は通行した。


踊山へは地域の宝、子供以外乗れない。


室積交差点に到着


元気な子供神輿まもなく早長八幡宮


神職、氏子総代


踊山の見せ場


宮ノ脇御旅所で神事




南京たますだれ 山口保存会


普賢寺境内で夕食と休憩

テレビ局取材





石灯籠出発 早長八幡宮へ


石燈呂(いしどうろ)2台
寸法 長さ 1.58m 巾 1.58m
高さ 4m
重量 500kg
品質 心木張子貼
製作地 地元(光市室積)
製作者 不詳
製作年代 元禄年間(1688〜1703)
所有 西ノ浜(にしのはま)及び 西江之浦(にしえのうら)
享保18年(1733)地元の大火により焼失、宝暦9年(1759)復造。
毎年白く塗り直し「御神燈」「宝暦九己卯(つちのとう)八月吉祥日」
「奉寄進」「願主敬白」と、右回りに筆を入れる。



神職、氏子総代



曳舟



踊山の子供たち 早長八幡宮到着






お神輿 早長八幡宮に到着


この後直ぐに本殿祭が行われ、お神輿の御霊移しの神事が行われた。


終了の挨拶


山口県光市室積 早長八幡宮山車御神幸の経路





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