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山口県光市室積中央 大隈稲荷社 澄姫民話の紹介 2012-10-24  





山口県光市室積中央 大隈稲荷社  
澄姫民話の紹介
2012-10-24


平家のお澄さまの民話の紙芝居説明会について
 
 山口県光市室積中央 大隈稲荷社についての紙芝居、平家のお澄さまが光かみしばいにより完成し、地元光市室積中央自治会館で、中央自治会の主催で紹介の催しが2012年10月24日行われた。  
 沢山の中央自治会員方がこられ紙芝居をみた。早長八幡宮の縁起についての紙芝居も同時に紹介された。  
 自治会館は大隅神社に隣接した場所にある。


お澄さまの民話と正木稲荷社廃止について
寿永3年(1184年)屋島の戦に敗れた平家は、海路を西に逃れました。
平経盛の船は、室積舟戸の浦に寄りしばし休息しました。
経 盛は、船路の安全の守護神として船中に祀っていた幸徳稲荷大明 神を、この地に遷座するよう命じました。
その時、愛娘「澄姫」を 敗戦の道づれにするに忍びず、雅楽守に同道して下船を命じました。
澄姫は、この稲荷様に村の五穀豊穣を祈り、村人に慕われてこの 地で亡くなりました。 村人は「お澄様」とも呼び、祀り信仰しています。 現在は大隈稲荷社と正木稲荷社とがあります。これは江戸時代初期に 蓬莱山から正木と澄田の境界に稲荷社が移され、後に両地区の話 し合いで、御心霊を二分してそれぞれに社を建立し村の守護神とした からである。


 
正木稲荷社廃止について、  
永きに渡り村の人々がお守りしてきたが、御世話する方が少なくなり、自治会で検討の結果廃止となった。
2012年7月22日、伏見稲荷大社への返納の催しが行われ、ご神体を返納した。本殿も8月解体された。
室積探訪他

山口県光市室積大隈稲荷社の場所




  「平家のお澄さま」紙芝居スナップ写真




  紙芝居準備中




  光紙芝居スタッフの皆さん


紙芝居開始


光紙芝居の皆さん紹介



紙芝居開始拍手



平家のお澄さま開始







「お澄さま」は平経盛の末娘である。」
寿永3年(1184)2月7日、摂津国一ノ谷の嶮に拠って激しく抗戦していた平氏の
一門は・源範頼・義経らのため一敗地にまみれ、宗盛は安徳天皇(御年七歳)
奉じて讃岐の屋島へ逃れたが翌寿永4年2月 19九日、源氏の総攻撃にあって、
ふたたび海上に浮かび 長門国壇ノ浦へ落ちのびた。



その途中のことである。平経盛の乗った軍船は闇夜に乗じて、上ノ関からひそかに
室積船戸の船がかりした。その船が港に入る直前、経盛は船上で一門の武将坂井雅
楽守盛秋を呼び寄せてこういった。
万一の場合を考えての頼みであるが、今日まで畏れ多くも、一天万乗の君の守護神
として、また、わが平氏一門の守り本尊として奉戴してきた幸徳稲荷をそちの
手によって、この周防国のどこかへご遷座申し上げて欲しいのじゃ。
末娘の澄もいっしよに連れていって欲しいのじや。あの子にわしと運命を共にせい
というのは・親として忍び難いものがある。この苦衷を察して、万一わしに
変事があった場合には、そちの子として末長く愛しんでやってくれまいか。」




坂井盛秋は委細を承知し、幸徳稲荷のご神体を奉じ、経盛の息女「お澄さま」
の手ひいて密かに船戸へ上陸し、暗闇のなかを何処へともなく姿を消していった。




  平家はその年の3月24日、壇ノ浦の合戦で全滅したが 、
それから数年の後、室積の市延在に豪壮な屋敷を構えていた地頭の武ノ下
孫左衛門方の離れに二人の姿を見かけるようになった。
平家の滅亡後、人気のない土蔵のなかで不自由な生活を送っていたのであっ
たが、ようやく時勢も、平穏をとり戻し、やっと人づき合いのできる人間
の世界へたち返っのである。





  幸徳稲荷は室積西ノ庄の宝莱山頂に祭られ、
「お澄さま」は坂井盛秋の息女として、
村人の病気や悩みごとの相談に応じていた。


そのころ澄田村の村役人に角田甚左衛門という人が武ノ下を訪れ、
裏門からはいって行くと、数間離れた場所からじっと見守っ
ていると、やがて「行」を終わって、すっくと闇のなか
に立ち上がった白い裸像に甚左衛門は「アッ!」と驚きの声を呑んだ。
その裸像は夜目にも明らかに「お澄さま」だとわかり、しかも、
その神々しさに真実「生身の神」を感じさせたからである。



たまたまこの年は近年にない大きな風水害に見舞われ、麦も米も不作
のうえに黄菜類までも減収で、村の人たちはみな生活に苦しんでいた。
「お澄さま」はそうした村人を少しでも救いたいものと、毎夜々々わが
身を生贄にして、ひたすら神霊の加護を祈っていたのである。



その「お澄さま」が19歳の、
ちょうど稲の穂先が色づき初めた八月半ばに、突然原因不明の病気で亡く
なってしまった。
その息を引きとる前、「お澄さま」は義父の坂井盛秋の両手をしっかりと
握りしめて、「わたくしの魂はいつまでもこの村里にとどまり、悩み多い
人々のうえに必ず明るい仕合わせをもたらすことを誓います」と遺言した。




経盛に頼まれて、坂井盛秋が祭った幸徳稲荷は今では大隅稲荷神社と
呼ばれ、そこには主神の「ウカノミタマ」(五穀豊穣の神)といっしょに、
聖女「お澄さま」の霊が祭られている。「お澄さま」のことを村では
「姫玉さま」といって崇め、その名の一字をとって部落を「澄田庄」
と呼ぶようになったという。
[以上光市史抜粋]


大隅稲荷神社鳥居





大隅稲荷神社




大隅稲荷神社祭殿   、



大隅稲荷神社鳥居


  「早長八幡宮由緒」紙芝居スナップ写真




  早長八幡宮には次のような伝説が残っています。




  ある時、神人(じにん)の内蔵(うくら)という者が、





早長の瀬に夜々あやしく光る物体を発見しした



不思議に思い西ノ浦の漁師に網を入れさせてみたところ、



一体の神像がかかった。



内蔵はもったいなく思いそれを浜辺にまつった




ところがある夜のこと、又も不思議な夢をみた。



早長の瀬の二つの岩の間から、まっ赤な太陽がのぼりはじめどこからともなく
一羽の大鳥が舞いおりてきて、岩の上に羽を休めたかと思うと、一声大空に向って鳴いた。

その鳴声が内蔵の耳にはこうきこえた。
早長や跡垂そめし雌雄の岩の うこかぬ千代の栄をも見ん

[意味:ここ早長に神がおいでになった。いつまでもこの
神を大切に祀り早長の瀬の二つの雌雄の岩が動かぬ如く
千代に栄えのあるように]




やがて夢からさめた内蔵は、これはきっと宇佐の神の
おつげに違いないと、早速村人たちにはかり




心をあわせてお社を建て土地の鎮守として祭った 




  以上「早長八幡宮社報平成2年元旦号」より






  早長八幡宮に、この雌雄の岩が祀ってある。
室積半島の東側の海は地原(じばら)、西側は早長(はやおさ)である。



感想その他 

 関係者の皆さん招待ありがとうございました。おかげで見ることが出来ました。
 近くにある神社の由緒についての紙芝居が出来たのは大変うれしい。
 光かみしばいの定期公演は光ふるさと郷土館で定期的に行われています。
 光ふるさと郷土館に確認されて見られることをお勧めします。





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